Home Sweet Home!

 インターホンの音で皋は目を覚ました。床に敷いたマットレスの上から起きる。昼寝と呼ぶには長く寝過ぎたせいで頭が重かった。
 インターホンには来客者をカメラで確認する機能がついていた。けれど、皋はそれを碌に使ったことがない。
「はいはい」
 玄関のドアを無造作に開けるとそこには知った顔があった。
「こんばんは。所縁くん。あ、もしかして寝てました?」
 思わず目の前でドアを閉めようかと思ったが、その人物はするりと体を滑り込ませる。
「昏見お前……仕事は」
「おやすみにしちゃいました」
「自由だな」
「ちゃんとTwitterとInstagramとFacebookとLINEで告知しているのでどうぞご安心ください」
 皋とは縁のないSNSの名前がすらすらと出てくる。それだけマメなのにこうも自分を構いにわざわざ店を閉めてやってくる昏見のことが理解できなかった。
「それにしても所縁くん、インターフォンっていう便利なものがあるんですからちゃんと使ってくださいね。近頃物騒ですから」
「んああ……」
 それには探偵であった皋所縁にはひとつのポリシーがあった。それは探偵を求める者を拒まないということだ。故に事務所へ訪れた客には等しく扉は開かれた。「名探偵」として名が売れるようになったあとは、全ての依頼を引き受けることはできず、同業者を紹介することもあったが、それでも皋は必ず探偵を必要とする人の言葉を聞くようにしていた。そのころの癖で、探偵を廃業した今でもつい扉を開けてしまう。
「で、何しにきたんだよ」
 昏見は事務所の応接室となっていた部屋のテーブルに持っていた紙袋を置いた。玄関扉から入ってすぐの部屋だ。
「新しくできたパティスリーに行ってきたんですけど、ついたくさん買いすぎてしまいまして。所縁くんと一緒に食べればちょうどいいかなって」
 パティスリーとは何かと聞きかけたが、昏見が紙袋の中から取り出した洋菓子を見て、その言葉を飲み込む。
「お茶淹れますね」
 あまりにもなんでもないように昏見はそう言って奥の給湯室へと姿を消した。
 この応接室はしばらくまともに客を迎えていない。それこそ、こうやって昏見が突然現れるか、不動産屋が内見を希望する客を連れてくるかのどちらかだ。
 皋は頬にかかる髪が鬱陶しいことに気づき、くくるためのヘアゴムを取りに寝ていた部屋へ戻る。ちょうど給湯室の横を過ぎた奥の部屋を皋は自宅として使っている。昔は事務所の他にアパートを借りていたのだが、結局家へ帰ることも稀な生活をしていたせいで、気つけばこの探偵事務所が事務所兼自宅となっていた。
「所縁くん。そういえばまだここに住んでるんですね。不便でしょう?」
 給湯室から昏見がそう話しかけてきた。
「ここ、解約するのに6ヶ月前に言わないといけないんだよ」
「ああそうなんですね。ちょっと長めですね」
 事務所用途の物件なので、退去するには半年前に言わなければいけないと契約書に書いていた。だから皋は探偵を辞めて、看板を下ろしてなおこの事務所に住んでいる。探偵を辞めるまで気がつかなかったが、事務所というのは住むのには向いていない。奥の部屋は窓もなく、こうして改めて見ると監獄のようですらある。
「というか、よく今までこんなところで生活してましたね」
「住めば都って言うだろ」
「住んでいるならそう言いますけど……。でも所縁くんあんまり住んでたって感じもないですよね。この部屋も生活感ゼロですし」
 昏見は苦笑しながら皋の部屋を覗き込んだ。ティーポットとティーカップを盆に載せている。ティーカップはもともと事務所にあったものだが、ティーポットや茶葉はいつの間にか昏見が持ち込んで給湯室に置いていったものだ。
「お茶が冷めないうちにいただきましょう」
 昏見と共に応接室に戻ると彼が淹れた紅茶と洋菓子が並べられる。
「いただきます」
「いただきます」
 皋は手を合わせると昏見のおすすめだというフィナンシェを口にした。
「美味っ」
「でしょう!」
 昏見は花が咲いたように笑った。ふんわりと香る濃厚なバターの旨味や上品なアーモンドの香り、しつこ過ぎない甘さは記憶の中にあるどんな焼き菓子よりも美味しかった。昏見が淹れた紅茶も普段飲むようなティーバッグの紅茶とは別の味がする。茶葉の違いかと思っていたが、昏見の置いて言った茶葉を使って皋が淹れてもこうはならなかった。
 自分にはできないことや知らないことがたくさんあるのだと昏見を前にすると否応がなく実感させられる。そして、皋の本願が成就した先の世界はきっとこういうことに溢れている世界であるはずなのだ。
「所縁くん。事務所を引き払う日が来たら教えてくださいね」
「え?」
「私が置きっぱなしにしているもの、片付けにきますから」
「ああ……」
 遠くない将来この事務所を出て行くことになる。昏見のことだから、彼が勝手に置いていった茶器も映画のDVDもなんの痕跡も残さず綺麗に片付けていってしまうだろう。
 住めば都という言葉は口をついて出た戯言だったけれど、決して嘘ではなかった。この事務所にも愛着は確かにあった。
「所縁くん。新しいお家ではちゃんとインターフォンを使ってくださいね。私なら良いですけど、殺人犯でなくたって悪い人はいますから」
 昏見はほんの少し何かを伺うように皋の瞳を見つめた。そして、皋の何かに納得するようにひとつ頷くと、気まぐれな猫のように「寂しいですねえ」とぼやいた。
 中途半端な失格探偵は、いつか失格探偵ですらなくなる日が来るのだ。
 皋所縁はその日を、全霊を持ってカミに願うと誓いを立てた。誓いは揺るがず、ただその時を待つばかり。