2章 悲劇の始まり

「わあ!」
 館に足を踏み入れると、私は思わず感嘆の声を上げた。玄関を抜け、ダンスパーティができそうなくらい広いホールに通された。爽やかなブルーの壁に白と金が差し色としてカーテンやレリーフにあしらわれている。天井からは金のシャンデリアが二つ並んで吊り下がっていた。透明なガラスが光を四方に反射させている。
 南側にはホールの天辺から足元までの高さの大きな窓があり、庭園がよく見えた。外開きの窓を開ければそのまま外のテラスに出られるようになっている。テラスには白いガーデンテーブルとチェアが置かれていて、晴れた日には庭を眺めながらお茶の時間を楽しめそうだ。
 一方、ホールの反対側にある窓からは海が見えた。館は海を背にして建っているらしい。こちらはまるで絵画のように小さく切り取られた窓で、縁が豪奢な装飾で飾られている。
 中央の国の城や他の貴族のお屋敷に足を踏み入れたことは何度かあったが、この館はそのどれにも劣らぬ立派なものだ。
「お気に召していただけましたか?」
 ホールの中は先客がいた。薄い青のワンピースに黒いストールを羽織った老女だった。刻まれた皺は深く、髪は白くなっている。意志の強そうな眼差しや杖をついているにも関わらず伸びた背筋が、厳しかった小学校の校長先生を思わせる風貌だ。
「娘のアリサ・カースンです」
 クリストフさんは私たちに微笑みかけた。娘という単語が目の前の彼女と一瞬結びつかなかった。彼女はクリストフさんよりもずっと年配に見える。それこそ、彼女が母で彼が息子なら納得できるほどの年齢差だ。けれど、クリストフさんがおよそ百年を生きた魔法使いであることに思い至って、私は納得した。実際の年齢で換算すれば、そうおかしなことではない。
「はい。とても素敵なお屋敷ですね」
 私の言葉に彼女は小さく口元で微笑んだ。
「さて、皆様には当主選定の儀について説明しなければなりませんね。お茶にしながらお話ししましょう」
 クリストフさんは呪文を唱え、指を鳴らした。壁際にあったテーブルと椅子が動き、そのテーブルの上に茶器とお菓子が並べられた。
「使用人たちはいないのか?」
 アーサーは彼に訊いた。
「当主選定までの間、暇を出しました。この島には私たちカースン家の人間と皆様しかおりません。不便はおかけしないようもてなすつもりではありますが、手落ちがあったら申し訳ございません」
「それは構わない。しかし、当主選定はどのように行うつもりなんだ? なぜわざわざ人払いを?」
「そのあたりはこれから説明させていただきましょう」
 丸い円形のテーブルに私たちは着席した。上座に当たるホールの奥側の席にアーサーが、真向かいにはクリストフさんがついた。クリストフさんの右隣にアリサさんが座って、他の席に私たちは適当に腰を下ろす。ブラッドリーやシノはこれから始まる話には興味がないのか席には着かず、ぶらりとホールを見物している。クリストフさんは気に留めていないようだった。
「カースン家の次期当主は投票で決めるつもりです。私クリストフ・カースンと七人の子供たちが相互に次期当主に相応しい者の名を書いて投じます。一番票が多かった者に私はカースン家の全てを譲りましょう」
「伯爵に票を投じることもできるということか?」
「いえ。私は投票する権利を持ちますが、あくまで次期当主になるのは子供たちのいずれかです」
 アーサーの確認にクリストフさんは首を振った。
「同票になった場合は決まるまで再投票を行います」
「誰が誰に投票したかは公開されるのか?」
 カインが尋ねた。
「そのつもりです。子供たちにはその心算で票を投じてもらう」
 つまり次期当主の候補は七人。伯爵と子供たちは一人一票ずつ持っている。誰が誰に投票したかは開票した段階で明らかにされる。そして一番多く票が入った者が次期当主になるということだ。こうして見るとシンプルなルールに感じる。
「私たちに当主選定の儀に立ち会ってほしいという話でしたが、それはこの投票の立会人になってほしいという解釈でよかったですか?」
「そうです。賢者様。皆様には当主選定に不正がないことを確認していただきたい」
 投票箱が空っぽなことを確認して、それからきちんと一票だけ投じられていることを確認する。開票して結果をまとめる。部外者である私たちにやってもらいたいのはこういうことだった。確かにカースン家の人たちは当事者なのだから、開票作業をするのに相応しくはない。この館にいる使用人たちも、クリストフさんが雇っているのだから完全に中立とは言い難いだろう。もっと言えば、魔法使いである彼の不正を見抜けるとしたら、同じ魔法使いだけだ。そこまで聞いて彼が私たちを呼んだ理由がわかった。
「それなら私たちに任せてくれ」
 アーサーは明るく答えた。ネロやヒースクリフもそういうことならと納得した顔になっている。
「ありがとうございます。子供たちのことは夕食の席で紹介しましょう。残念ながら到着が遅れている者もいるので。先にお部屋でおくつろぎください」
 クリストフさんがそう言うと、隣に座っていたアリサさんがテーブルの上に金色の鍵を並べた。鍵の頭には色のついた石が埋め込まれている他に目立った装飾はない。鍵には鍵よりも二倍ほど長いプレートが鎖で繋いである。こちらの細長い銀のプレートも部屋の番号が書いているだけのシンプルなものだ。赤い石がついたものが一本、青い石がついた者が三本─計四本の鍵がテーブルの上にある。
「皆様のお部屋の鍵です。どの部屋もベッドが二つあります」
「部屋割りを決めないといけませんね」
「俺はアーサー様と同じ部屋にさせてもらう。ドラモンド様によくよくあんたを守るように言われてるからな」
 カインはアーサーに視線をひとつ送ってから、青い石のついた鍵を手に取った。
「じゃあオレはヒースと同じ部屋だ」
 ホールの中をぶらついていたシノが円卓の上にある赤い石のついた鍵を手に取った。
 残るのは私とブラッドリー、ネロだ。
「ブラッドリーとネロが同じ部屋でいいですか?」
「おう」
「えっ?」
 全く違う反応が二人同時に返ってきた。
「ネロが一人部屋がいいなら私とブラッドリーが……」
「いやいやいや……いいよあんたが一人部屋で。こいつと二人にすると心配だし」
「……? じゃあそういうことで」
 私とブラッドリーがそれぞれ残った青い石のついた鍵を手に取った。
「そのプレートは邪魔でしょう。後で外していただいても構いませんよ」
 クリストフさんはそう言うと、私たちを客室に案内するために席を立つ。アリサさんはホールに残るようで「ごゆっくり」と告げて私たちを見送った。
 彼についてホールを出ると階段で二階に上がる。紺のカーペットが敷かれた廊下の両側に部屋がある。
「扉に部屋番号が書かれていないから分かりづらくて申し訳ない。海側を正面にして一番左手の海側の部屋から時計回りに一、二、三と番号を振っている。二〇一の鍵を持っているのは?」
 クリストフさんが尋ねるとカインが手を上げた。
「殿下と騎士殿のお部屋は海側の左端だな。賢者様はその右隣」
 私の持っている鍵のプレートには〈202〉と彫られている。
「じゃあ俺とネロはそっちの端か」
 ブラッドリーとネロの部屋の鍵は〈204〉のものだ。この階は海側に四室あるから、海側の右端に部屋があることになる。
「俺とヒースの部屋はブラッドリーとネロの部屋の向かいだな」
 シノは〈205〉と書かれたプレートを示した。庭側も四室並んでいる。
「夕食は六時の予定です。時間になったら一階に下りてきてください。それまでは部屋でくつろがれるも良し、ホールでお茶をするも良し。自由に過ごしていただいて構いません」
 クリストフさんはそう言うと自室に戻ると言って三階へと上がっていった。
「ひとまず荷物を置きましょうか」
 反対の声は上がらず、皆割り当てられた部屋に向かう。部屋の扉に鍵はかかっていなかった。

 

 あてがわれた部屋は魔法舎の私室よりもやや広い。ベッドが二つ並んでいて、一人がけのソファが二つテーブルを挟んで置かれている。私はソファの上に鞄を置いた。
 カーテンを開けると天井から足元まで続く窓があった。格子の窓枠にガラスが嵌まっている。かんぬき状の簡易な鍵がちょうど真ん中あたりの高さに付いていた。私は鍵を外して窓を開けると、バルコニーに出た。バルコニーに出ると潮の香りが鼻につく。
 眼前には海が広がっていた。風が強くないせいか波は穏やかだった。それでも島の岸壁にぶつかる波は音を立て、白い泡が浮いている。ここから真っ逆さまに落ちてしまえば、ひとたまりもない。そう思うとバルコニーの手すりを握る手に自然と力が入った。
「賢者様」
 声をかけられて左の方を見る。隣の部屋のバルコニーからアーサーとカインが手を振っていた。バルコニーは白い手すりに囲まれている。隣の部屋のバルコニーまでは互いに腕を伸ばし合って触れるか触れないかという距離だ。少し声を張れば会話に支障はない。
「そちらはどうですか?」
「素敵な部屋でした。この後、賢者様のお部屋に伺っても?」
 アーサーは両手の平でメガホンを作って大きな声で答えた。
「もちろんです」
 一度バルコニーから部屋の中に戻り、窓を閉めて鍵をかけた。すると、ちょうど良くドアがノックされた。
「どうぞ」
 カインとアーサーを部屋の中に招き入れる。
「お邪魔します」
 二人はそう言って部屋に入ってくる。
「二人の部屋と違いますか?」
「いや、ほとんど同じ作りだな。バスルームも付いてるから驚いた」
 カインの言葉に私は頷く。小さいがこの部屋にはバスルームもある。ちょっとしたホテルみたいだなと私は思った。それも過去に泊まったどのホテルよりも上等な部屋だ。
「この後はどうしましょうか。夕食までまだ時間がありますけど」
「俺とアーサーも同じことを話してた」
 アーサーは小さく頷く。
「すでにこの館に到着しているカースン家の人たちと、夕食前に話ができないかと思っていました。ホールに行くつもりですが賢者様もいかがですか?」
「はい。私も是非」
 アーサーはどこか浮かない顔をしている。何かに気を取られているような様子に、私は思わず尋ねた。
「アーサー、どうかしましたか?」
「ああ……すみません。少し気掛かりなことがありまして……」
 アーサーは声のトーンを落として続けた。
「賢者様は今回の当主選定の儀についてどう思われますか?」
「どう……ですか?」
「曖昧な質問になってしまって申し訳ありません。私にはこの投票には何か裏があるように思えてならないのです」
「裏……」
「本来カースン家の次期当主を決められるのはカースン伯爵だけです。当主選定の投票自体になんら効力はありません。言ってしまえば、結果を無視して伯爵が選んだ者に当主の座を継がせることだって可能なのです。伯爵は『当主選定に不正がないこと』を私たちに確認してほしいと言いました。伯爵自身も票を投じるのですから第三者を招くのは自然なことかもしれません。しかし、もとより投票自体がカースン伯爵の意向によってなかったことができるというのに……あまりに仰々しくはありませんか?」
「言われてみればそうですね」
「もっとも、だからこそ公正を期す姿勢を示すのだと言われたら理屈は通っています。それか、私たちを呼びつけるのに最もらしい理由を用意しただけなのかも。だからこそ、これはあくまで根拠のない不安なのですが……」
 私たちは押し黙った。アーサーの感じる不安がなんとなくわかる。ただ、この不安の元がなんなのか上手く言葉にすることができない。孤島という環境が感じさせる不安だと言われたらその通りだとも思う。
「ですから、部屋に閉じこもっているよりは、カースン家の人たちに会って情報を集めたいのです」
「私も賛成です。短い間ですが同じ屋根の下で暮らす人たちのことはよく知っておいた方がいいですよね」
 アーサーの言葉に私は頷いた。カインがパンと手を叩いた。
「そうと決まれば行くか。みんなにも声をかけていこう」
 私たちは廊下に出る。部屋の鍵を閉めて、他の魔法使いたちに声をかけに行くことにした。

 

 最初に訪れたのはヒースクリフとシノの部屋だった。ノックをするとすぐにドアが開いた。
「どうした?」
 シノに問われて私たちはホールに行くことを告げた。
「オレはおまえたちに付いて行ってもいい。ヒースはどうする?」
「それなら俺も賢者様たちと一緒に行きます」
 部屋の奥で荷物を整理していたヒースクリフが顔を出した。
「シノたちの部屋はどうですか?」
「入ってもいいぜ」
 ヒースクリフとシノの部屋は私の部屋とは反対側だ。部屋自体の作りは私の部屋と大きく違わないが、バルコニーがないことと、カーテンの開いた窓からよく手入れされた庭が見えることが異なっていた。
「こっちの窓からは庭が見えるんですね」
「はい。窓からどんな風に庭が見えるのか計算して作っているんだと思います」
 ヒースクリフが私の横に立って庭を見下ろしながら言った。私と違ってヒースクリフは建物や庭の作りの良し悪しを言葉にまとめることができるようだった。さすが貴族の生まれだ。
 窓から見ると、庭は左右対称に整えられていることがわかった。緑とそれをあしらうような鮮やかな色合いの花々。
「島にこんな館を建てるのって大変ですよね?」
「それはもう!」
 ヒースクリフは強く頷いた。
「相当大変だったと思います」
 そこまでこだわりを持って作られた館に今も住んでいるのは、使用人を除けばクリストフさんと船内で執事が話していた彼の娘が一人だけ。単に久しぶりの客人を招きたかっただけなのでは。そんな風に考えるのは楽観的すぎるだろうか。
「ブラッドリーとネロも誘ってみましょう」
 私は向かいのブラッドリーとネロの部屋を訪ねた。ノックした後にネロが出てくる。階下のホールに行こうと思っている話をすると、彼は頷いて戸を閉めた。
「あいつは朝早かったからって昼寝し始めたよ。俺は賢者さんに付き合わせてくれ」
「ありがとうございます。ネロ」
 ブラッドリー以外の面々で連れ立って一階のホールを訪れると先客がいた。一人はアリサさん、もう一人は知らない女性だった。二人ともアーサーを見ると立ち上がり、礼をする。
「お初にお目にかかります。サラ・カースンと申します」
 クリストフさんとおよそ同年代─四十過ぎに見える女性だ。肩あたりで揃えられた濃い茶色の髪の上に紺のカクテルハットを載せている。とりわけ化粧や服装が派手なわけではないが、目を引く独特の華やかさのある女性だった。
「初めまして。アーサー・グランヴェルだ。こちらが賢者様と賢者の魔法使いたちだ。ここでは私のことも王子というよりは彼らの仲間だと思って接してほしい」
 彼女は私に向き直るともう一度礼をした。
「皆様にお会いできたこと嬉しく思いますわ」
 アリサさんはトントンとテーブルを叩いてから尋ねた。
「皆様もお茶を?」
「はい。よければ少しお話しでもと」
 私が答えると彼女は「お茶を用意して」と誰もいない空間に話しかけた。すると一人でに茶器が動き出して、お茶の支度を始めた。
「父の魔法ですよ」
 目を丸くした私にサラさんが説明してくれる。彼女はなんでもないように砂糖壺を手に取った。
 先ほどよりも小さいティーテーブルが四つほどホールの中に配置されている。私とアーサー、カインはアリサさんとサラさんの座っていたテーブルに着く。他の魔法使いたちは別のテーブルを囲むことになった。
「サラさんはアリサさんの妹さんですか?」
「はい。私はカースン家の次女、兄弟の順番で言うと三番目です」
 サラさんはアリサさんに視線を向けて尋ねた。
「アリサ姉さん、まだ何も紹介していないの?」
「ええ。お父様が夕食時にまとめて紹介すると」
「そうなの。でもどうせなら兄さんも連れてくるわ。─少し待っていてください。私の兄を呼んできます」
 サラさんはそう言って席を立つ。アリサさんはまたトントンとテーブルを叩いた。すると彼女の手元に羽ペンと紙が現れた。
「私たち兄弟についてお知りになりたいのでしょう」
 彼女は感情の見えない声でそう言った。
「すみません……。詮索するつもりはなかったのですが」
「いいえ。この島まで呼びつけられて、私たちがどんな人間なのか気になって当然です」
 アリサさんは紙に文字を書きつけた。
「私たちは七人兄弟です」
 彼女は紙に書きつけた文字を示した。私にはよく読めないが名前が書いてあるらしい。
「一番上が私アリサ。二番目がカーター、三番目がここにいたサラ。そして、タリン、ナッド、ハラルド、マリー」
 彼女が名前を読み上げる。
「サラ殿とアリサ殿は年が離れていらっしゃる」
「ええ。よくお気づきです」
 アーサーに向かってアリサさんが頷いた。彼女は紙に線を書き足す。
「父には今までに四人の妻がいました。私は最初の妻との間に生まれた子。カーターとサラは二番目の妻、タリンとナッドは三番目の妻、ハラルドは一昨年亡くなった四番目の妻との間に生まれた子です」
 アリサさんとサラさんの年齢差は軽く見積もって三十歳はあるように見える。これだけ年の離れている姉妹のことが、私はようやく理解できた。実際に彼女たちはそれだけ年が離れていたのだ。
「マリー嬢の母親は?」
 カインが尋ねる。
「マリーは父が五年ほど前にこの館に連れてきた娘です。母親のことは私も聞いていませんが、父の愛人の娘ではないかと。そういう人は今までに何人か……」
 アリサさんは特に表情を変えずに言った。ちょうどその時、サラさんが恰幅の良い男性を連れて現れた。年齢は五十歳ほどに見える。
「皆様ようこそ、この島へ。カーター・カースンと申します」
 先ほどの話をまとめるとカーターさんは兄弟の二番目、サラさんの同母兄だ。彼は東の魔法使いたちが座っているテーブルに腰を下ろした。
「カースン家の皆さんはいつから島にいらっしゃるんですか?」
 アーサーが尋ねるとカーターさんとアリサさんが答えた。
「私とサラは昨日からです。アリサ姉さんは?」
「私は三日前から」
 私たちは差し障りのない雑談を続ける。もっぱらアーサーとカインが話を盛り上げて、東の魔法使いと俺は何となく頷く係だった。
 七人兄弟のうち、上の五人の兄弟は島を出てそれぞれ別の場所で生活しているようだ。
「みなさんも港はご覧になられましたか?」
「ああ。噂に聞く通りの大きな貿易港だった。驚いたよ」
 カインの言葉にカーターさんは笑顔を見せた。彼とアリサさんは港町に生活の拠点がある。
「お時間があれば、私が帰りに街を案内しましょう」
 カーターさんは港町にある大きな海運会社の社長をしている。元々町で商売をしていた奥さんの実家を継いで、さらに大きくしたということを自慢げに語っていた。
 アリサさんは結婚を機に島から出て、長い間港町で暮らしている。夫は通関手続きをする事務官だったが、すでに隠居して久しいとのことだった。子供が三人、孫が七人いる。クリストフさんが不在の時は、町で当主代行として仕事をすることもあるらしい。
「私もびっくりしたわ。昔よりもずっと綺麗になっていたもの」
 サラさんはカースン家と同格の伯爵家に嫁いで、カースン領から西に進んだ街に住んでいるという。この館を訪れるのは実に十年ぶりだそうだ。
「あまりこの島には戻られていないんですね」
 私が尋ねるとサラさんはテーブルの上で指を組み直してから答えた。
「ええ。今暮らしている街からは距離もあるし、もう長いこと来てなかったわ」
「私も七、八年……ぶりか」
 意外なことに、近くに住んでいるカーターさんも、最後に訪れた時期がパッと思い出せないほど長くこの島を離れていたらしい。
「アリサ姉さんはたまに来ているの?」
「私も年に一度か二度……といったところよ」
 こんなに広いお屋敷なのに、子供たちですら訪れることは稀だなんて、寂しい気がする。
「おや、兄弟たちの到着だ」
 カーターさんは重そうな体を揺らして、庭に面した窓の方へと寄った。それから窓を開けると庭に向かって大きく手を振る。私の座っている位置からも誰かが館に近づいているのが見えた。
 近づいてくる人影は二つあった。二人とも玄関ではなく庭からホールに入ってきた。
「遅くなりました」
 顔つきは似ているのに、不思議と対照的な印象のある青年たちだった。二人とも年齢は二十代だろう。一人は今まであったカースン家の人たちの中でも一際クリストフさんに似ていた。見るからに爽やかな好青年然としていて、声も穏やかに響く。もう一人はどこか影のある印象が漂っていた。表情は固く、私たち見る目つきも厳しい。
「タリン・カースンです」
 爽やかな印象のある青年が名乗った。それから彼は促すように隣にいる青年の背中を叩く。
「ナッド・カースン。─失礼」
 彼は短く名乗るとそのまま私たちの横を通り過ぎた。アリサさんと何か言葉を交わし、そのままホールを出て行ってしまった
「弟がすみません」
 タリンさんが申し訳なさそうに言った。アリサさんの説明を思いだす。タリンさんは兄弟の四番目、ナッドさんは五番目だ。
「いや。長旅で疲れてるんだろう」
 カインが明るく言った。
「そうだといいんですが。まあ、夕食には顔を見せるでしょう」
 これで私たちが顔を合わせていないのはハラルド・カースンとマリー・カースンの二人だけになった。
 タリンさんが荷物を寝室に置きに行くと告げると、ティータイムも自然とお開きになる。カーターさんとサラさんは自室に戻っていった。アリサさんはお茶やお菓子を用意してくれる魔法のテーブルの使い方を俺たちに説明すると、「食堂にいます」と言い残して去っていった。
 私はヒースクリフとシノと共に庭を見物することにした。庭園は元いた世界で例えるならちょっとした公園ほどの広さがある。魔法舎の中庭よりもひとまわり大きい。花壇と花壇の間にはレンガ敷きの小径が通っており、ぐるりと一周するだけで良い散歩になりそうだった。
 夏の気配を漂わせた花壇には鮮やかな花が咲き誇っている。薔薇に芍薬、ナスターシャム。私の知らない花もたくさんあった。どれも良く手入れされていることがわかる。
「温室もあるんですね」
 ヒースクリフが六角形の形をしたガラス張りの建物を指差した。ガラス越しにも花や木の影が見える。
「あとで中を見せてもらえないか頼んでみましょう」
 この島にはあと二日滞在することになる。明後日の夕方、当主が決まり次第私たちはこの島を去る予定だ。明日は丸一日予定もない。
 ぽつ、と頬に冷たい感触がする。
「雨……ですかね」
 朝はあんなに晴れていたのに、気がつけば空には雲がかかっていた。
「夜には大雨が来る」
 空を見上げていたシノがぽつりと呟いた。森で暮らしていたためか、天気の変化に敏感なシノの予報はよく当たる。本格的に降り出す前に私たちは館の中に戻った。

 

 雨から逃れるように館の中に戻るとホールの中に見知らぬ少年がいた。彼と話をしているアーサーとはちょうど同じくらいの年に見える。背が高く、痩せている。
「賢者様。ハラルド殿です」
 アーサーが彼を紹介する。兄弟の六番目だ。
「初めまして。私は真木晶と言います」
「ヒースクリフ・ブランシェットです」
「シノだ」
 私たちが挨拶すると彼は内気そうに控えめな声で言った。
「ハラルド・カースンです」
 それから彼は庭の方を一度窺い、それから私たちに向かって言った。
「そろそろ夕飯の支度が整います」
「そりゃあちょうどいいな」
 部屋で昼寝をしていたはずのブラッドリーがひょいと顔を出した。椅子に腰を下ろすと、欠伸を一つした。初めて来た場所だというのに、彼には気負うところもなく、我が家のようにくつろいでいる。
「カインとネロは?」
 私はアーサーとブラッドリーに尋ねた。カインとネロはアーサーに付き合ってホールに留まっていたはずだ。
「二人ともアリサ殿に手伝うことはないかと尋ねて食堂に行きました。つい十分くらい前でしょうか」
「お二人にはちょうど食堂ですれ違いました」
「そうか。立ち話をしてしまってすまなかった」
「いえ、殿下」
 アーサーの表情は先ほどアリサさんやサラさんたちと話していた時より柔らかい。年の近い少年と話す気安さもあるのだろう。
「それじゃあ食堂に行くか」
 ブラッドリーは腹が減ってしょうがないという顔をしている。
 ちょうどその時だった。開け放った窓の先、風の音に紛れて人の声が聞こえた。話し声ではなく叫ぶような高い女性の声。
「今何か……」
 最初に動いたのはシノだった。軽やかにテラスを通り庭に出ると声の方向を探す。続いてヒースクリフと私、ハラルドさんとアーサー、ブラッドリーが続いた。
「見ろ!」
 シノが温室の方を指差した。ガラスの中で動く人影がある。再びつんざくような悲鳴が聞こえる。今度ははっきりと。
「マリー!」
 ハラルドさんが温室の方に駆け寄った。温室の中にいるのは黒髪の少女だった。彼の手が温室のドアノブを強く引く。けれど開かない。少女は温室の中を走っている。視界の中に赤いものが見える。
「なんで鍵が……」
「温室の鍵は?」
「庭師か……そうでなければ父がマスターキーを」
「ガラスを割った方が早い」
 シノがすでに魔道具の鎌を構えていた。温室の中で何かが割れるような激しい音がした。アーサーが頷いた。
「《マッツァー・スディーパス》」
 シノの大鎌がガラスを一枚割った。魔法の効果なのか破片は飛び散らない。ヒースクリフが私の耳元で素早く囁いた。
「賢者様。俺はカインたちを呼んできます」
「はい。お願いします」
 それから私たちは割れたガラスから温室の中に入る。温室は二層構造になっていて、スロープで二階部分へと上がれるようだ。二階部分の面積は一階部分の半分ほどしかなく、温室の一階奥側は吹き抜けになって天井まで見上げることができるようになっている。
 少女は背の高い植物が枝を伸ばしたその下にいた。ちょうど入口から十歩ほど歩いたところ。吹き抜けになっている方へと足を踏み出した場所に倒れている。
「マリー……!」
 ハラルドさんは彼女に駆け寄った。しかし、彼の声に彼女が応えることはない。
「こりゃダメだな」
 ブラッドリーの声が聞こえる。
 少女は両手をだらりと体の横に伸ばし、仰向けに倒れていた。黒く長い髪は地面に広がっている。表情はわからない。陶器製の大きなオブジェが彼女の首から上を潰していた。彼女の頭部から流れた血は地面を赤く染めている。それだけではなく、彼女の衣服にもところどころ赤い染みが見えた。ブラウスの袖口や腹の辺りにも。
 その時背後で足音が聞こえた。
「ちょっと、どうしたって言うのよ」
 サラさんの声だ。カインとネロの姿もある。カースン家の人たちも集まってきた。ヒースクリフの後ろにはタリンさん、ナッドさん─それに当主であるクリストフさんの姿もあった。
「マリーさんが……」
 私の言葉を聞く前にサラさんが絶叫してその場に座り込んだ。他の人たちも皆驚きの表情を浮かべている。違う─。
(なんで……)
 一人だけ先ほどまでと変わらない様子をしていた。クリストフ・カースン伯爵。彼だけは冷静に少女の遺体を眺めている。
「可哀想に」
 彼の言葉は温室の中でやけに大きく響いた。

 

 マリー・カースンの遺体発見後、この島にいる全員が食堂に集まった。とても和やかな夕食会をするムードではない。カースン家の人たちは皆黙ったままだった。ハラルドさんは目を真っ赤にしている。私たちも目の前で起こったことに言葉がない。
「さて、客人の皆様方にはこんな事態になって誠に申し訳ない」
 クリストフさんはそう切り出した。彼は私たちを部屋に案内したのと同じような口調で告げる。
「マリーの遺体は離れにある食品貯蔵庫に安置しよう。あそこなら明後日船が来るまで保つ」
「船なら夜が明けたら俺たちが呼んでこよう」
 カインが真っ先に提案した。魔法使いなら箒で港まで簡単に飛んでいける。船を呼ぶことも、彼女の死の原因を調査するために、街に駐留している騎士団を呼ぶこともできる。夜中に船を出すことは難しいにしても、夜が明けたなら。
「それはいけない」
「なぜだ?」
 クリストフさんは首を振った。
「次期当主が決まるまで、カースン家の人間は誰もこの島を離れてはならない。カースン家の人間と立ち会い人以外は何人たりとも島を訪れてはならない」
 呪文を刻み込むような口調だった。
「当主選定を続行されるおつもりですか? ご令嬢が亡くなったのに?」
 アーサーが問いかける。
「無論」
 クリストフさんは酷薄な笑みを浮かべた。
「当主選定は明後日午後三時、予定通り行います」
「あれが事故じゃなかったとしてもか?」
 口を挟んだのはブラッドリーだった。彼は挑発するように食卓に肘をついてクリストフさんの方を窺った。机の下ではどこから持ってきたのか小さなボールを手の中で転がしている。
「ええ。私は申し上げました。皆様には当主選定に不正がないことを確認していただきたい、と」
 その言葉の意味に思い当たって私はぞっとした。
「あなたは不正が行われることを予期していたんですか?」
 彼は私の問いに答えなかった。まるでこの場の支配者のように、芝居がかった仕草で宣言をする。
「万が一この島で殺人があったとしたら、それは不正に違いないでしょう。しかし、犯人が明らかにならなくては、不正の告発もできない。賢者様、賢者の魔法使いの皆様には、是非殺人という残虐な行為で当主選定を有利に運ぼうとする犯人を見つけていただきたい」
 彼は子供達を見渡した。子供たちは、判決を受ける被告のように肩を落として恐る恐るというように父親を見ていた。
「そして、正当な証拠を以て告発されたものは当主に選ばれる権利、そして投票する権利を失うこととする」
 遠く雷の音がする。シノが予想した通りに雨音は強くなっていた。